フォトグラファー武藤奈緒美の「みる」日々 連載シリーズ

見えないものが見えてくる落語の世界

こんにちは。フォトグラファーの武藤奈緒美こと、むーちょです。

 

見えないものが見える・・・と書くと、こんな時期外れに幽霊話か!?と煙たがられそうですが、さにあらず。今日は私がこよなく愛する落語の話をします。

そもそも落語との出会いは遡ること18年前、雑誌の企画で演芸誌「東京かわら版」の編集部を取材したのがきっかけでした。その際落語会の招待券をいただき行ってみたものの、面白いのかどうかがよくわからないというのが最初の印象でした。「落語だー」と構えてしまったうえに私の「面白い」のチャンネルが狭く、向こうの「面白い」のチャンネルと噛み合ってなかった、と今だったら理解できます。ですがこのときの私は、落語そのものに「面白くない」という早まった判断を下しました。なんと狭量で未熟だったことか!

 

それから1年後、前出の編集部から落語家さんの撮影を打診されました。「やりまーす!」と軽い気持ちで引き受けたのですが、この時撮影したのが現在人間国宝の柳家小三治師匠。落語に疎かったはいえ、知らないというのはある意味最強です。緊張もなく、ああしてくれこうしてくれと臆せず動きの注文を出したのを覚えています。気さくに応じていただいたことも。

 

それから落語家さんを撮影する機会が徐々に増えていき、ある時インタビューの最中にふと思ったのです、「インタビューでこんなに面白いのだから、本業中(=落語を話している最中)はもっと面白いんじゃないか」と。初めて寄席というものに足を運びました。

私が暮らす東京には、寄席が4ヶ所あります。浅草、上野、新宿、池袋。寄席デビューは新宿末廣亭でした。新宿三丁目の繁華街に突如現れる、そこだけ時代が巻き戻されたかのような趣きのある木造建築で、建物正面にはその日の出演者が書かれた札がずらりと並んでいます。その日、テケツ(切符売り場)で入場券を求め、内心緊張しながらそーっと未知の世界に滑り込みました。

 

やや薄暗い客席の向こう、襖を背景にした舞台の真ん中には座布団がちょこんと置かれています。私は椅子席ではなく桟敷席へ上がり、席前の手すり状のところの蓋を開けて靴を入れ、座布団に体育座りしてひとまず落ち着きました。

出囃子が聞こえ演芸時間のはじまり。次から次へと登場しては去っていく芸人さんたち。落語のみならず、傘を回したりナイフが飛び交ったり(太神楽)、揺れながら紙を切るおじさんが現れたり(紙切り)、男女で言い合いを始めたり(漫才)・・・「面白い」のチャンネルが噛み合う瞬間が何度も何度も訪れました。おお、なんだここは!?せわしげに出演者が変わってゆくにも関わらず、のんびり極まりない世間と隔絶されたこの時間は空間はなんなんだ!?私にとっては新しい感覚。古くから脈々と続く落語という芸能に魅了され聞きに行くのが日常になるのにそう時間はかかりませんでした。

落語は語り芸です。話者である落語家がひとり座布団に正座し、昔から語り継がれる古典落語や自身が創作した新作落語を語る。ひとりで何人もの登場人物を担い、いくつもの場面を描く。時には時空をも超える。ひとりなのに、語りだけなのに、何もかもを内包している豊穣な世界。落語家から放たれた言葉が私の脳内にその場面を次々と映し出す。姿形がないはずの言葉が像を結ぶ。タイトルの「見えないものが見えてくる」というのは、落語を聞いているときに起きるそういう作用のことを指しています。

ある落語会で、若くしてすでに人気実力筆頭のお一人と言って過言ではない春風亭一之輔師匠の「猫定(ねこさだ)」を聞いたときのこと。この噺、ちょっと物騒な噺なのですがそこは置いておくとして。

登場人物の一人、博打打ちの定吉。彼は譲り受けた猫がサイコロの出る目を鳴き声で知らせることに気付き、懐に猫を入れての賭場通いで大儲け、「猫定」なんて呼ばれるようになる。

一之輔師匠がやや前屈みになり着物の襟をくつろげ懐から猫を取り出す所作をしたその瞬間に、猫の動線が見えた。「今、猫が飛び出てきた!」と自分でも驚きました。語られる場面を脳内に浮かべることは常でしたが、こんなにもはっきりと見えないはずのものが見えたことは初めてでした。聞き手としての腕が上がったような気になって、猫が見えた猫が見えたとしばし浮かれました(もちろん一之輔師匠のなせる技)。落語を見聞きする醍醐味が新たに加わった出来事です。落語に行くようになって十数年経ちますが、それでも新たな体験がもたらされる。飽きることなく聴いていられるのは、落語家の魅力、落語そのものの面白さに加え、こういうことが時々起きるからでもあると思っています。

見聞きするのと並行して撮影もしてきたこの十数年、笑いながら時に涙をにじませながら落語家の高座姿を撮ってきました落語は笑うだけにとどまらず、涙を催すような噺もあります。私の場合、噺そのもので涙が出るというよりも、落語家それぞれの表現と噺とが混じり合って胸を打たれることが多いようです。

カメラを通して落語に接するときの見えないものが見えてくる体験については・・・

あっ、ここでお時間です。この続きはまた今度。

ドロドロドロドロ・・・(ハネ太鼓の音)

 

  • この記事を書いた人

武藤 奈緒美

1973年茨城県日立市生まれ。 國學院大學文学部卒業後、スタジオやフリーのアシスタントを経て独立。 広告、書籍、雑誌、パンフレット、web等で活動中。 自然な写真を撮ることが信条です。 ここ10年程で落語などの伝統芸能、着物の撮影を頻繁にやっております。 移動そのものが好きで、その土地その土地の食べ物や文化に関心が強く、声がかかればどこにでも出かけ撮っています。 趣味は読書、落語や演劇鑑賞、歴史探訪。 民俗学や日本の手仕事がここ数年の関心事項です。 撮影を担当した書籍に「柳家喬太郎のヨーロッパ落語道中記」(フィルムアート社)、「さん喬一門本」(秀和システム)、「かぼちゃを塩で煮る」(絵と文 牧野伊三夫 幻冬舎)、「落語家と楽しむ男着物」(河出書房新社)など。[HP むーちょで候。]http://www.mu-cyo.com

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