稀人ハンター川内イオの東奔西走記 連載シリーズ

解放感抜群!スケートするなら天然氷の『田んぼリンク』

皆さん、こんにちは!

常識に縛られず、驚くような発想と行動力で世間をアッと言わせる「規格外の稀な人」を追いかけている、稀人ハンターの川内です。

 

寒くなると寒いところに行きたくなる、冬になると冬らしいことがしたくなる僕ですが、どんな時にもなるべくベタなことはせず、稀な人、稀な場所、稀な体験を探したくなる性分。どこか面白いところがないかなあ、稀人がいないかなあとアンテナを張っていたら、冬に訪ねるのにピッタリの場所がありました。

福島県川俣町の山木屋(やまきや)地区。福島駅から車で約40分、国道114号線の富岡街道をひたすら南下していくと目に入るのが「絹の里 やまきやスケートリンク」です。ここは1984年からほぼ毎年、田んぼに張った水を凍らせてスケートリンクにしていて、「田んぼリンク」と呼ばれています。天然氷の屋外スケートリンクはいくつかあるけれど、今の時代、田んぼを利用しているところはとても珍しいのです。

 

僕が取材に行ったのは、2019年1月。真っ青な空が広がる快晴の日で、リンクを囲むように連なる阿武隈山地の山の木は、雪をかぶって眩しく輝いていました。スケートリンクと言えば屋内が多く、屋外リンクもほとんどが街なかに設けられる印象ですが、広々としたやまきやスケートリンクを囲むのは山の樹々だけで、解放感抜群! 気温はマイナス一度でしたが、何度も深く深呼吸したくなるぐらい気持ちいい環境です。

 

リンクには子どもが多く、みんな、頬を赤く染めながら、スイーッ、スイーッと流れる風のように滑っていました。小学校にあったようなイスで、足がソリのように加工されたものがリンクに置かれていて、小さい子をそのイスに載せながら、楽しそうに滑っている子もいます。その風景は、なぜか懐かしく感じるものでした。

 

田んぼリンク誕生の理由

やまきやスケートリンクは、1984年からずっと地域の有志の力で運営されています。利用料は靴のレンタル料を含めて大人500円、高校生以下200円(一般開放は土・日曜で、平日は5人以上の利用で要予約)。この価格を見ても、営利目的ではないのがわかります。

 

この田んぼリンクの立ち上げメンバーのひとりが、「川俣スケートクラブ」の副会長、大内秀一さんです。お孫さんが外で遊ばずにファミコンをするようになって、「子どもなら寒くても外で遊んでほしい。どうにかならないか」と思っていたのが、1984年。その頃にたまたま観たテレビで、スピードスケートのある日本代表選手が子どもの頃、田んぼにつくったリンクで滑っていたというエピソードが紹介されていて、ピンときたそうです。

 

仲間を募り、当時、田んぼリンクを作っていた長野県南佐久郡臼田町立臼田小学校などへ視察に行ってリンクづくりと指導方法を教えてもらい、1984年11月には「川俣スケートクラブ」を発足させました。

 

ただ田んぼに水を撒けばスケートリンクができるわけではありません。気温が下がる夕方から夜にかけて、重たいホースで放水します。分厚い手袋をしても手がかじかみ、外気に触れる耳や鼻は体温を失って氷のように冷たくなるそうです。「川俣スケートクラブ」の事務局長に就いた大内さんを含む発起人の5人が、この重労働を担いました。ボランティアで続けられたのは、すぐに町の子どもたちに変化が表れたからです。家にこもってファミコンばかりだった冬、スケート靴を持ってリンクまで遊びに来るようになったのです。

 

1985年には、「川俣スケートスポーツ少年団」が結成されました。地域の小中学生109名が加入したというから驚きです。大内さんと仲間の大人たちは、真剣に指導しました。その甲斐あって、これまで(2019年1月時点)に53人の国体選手を生み出し、なかにはインターハイで5位に入賞した選手も。大内さんは「ここでたくさんの夢を見させてもらったんだ」とほほ笑みました。

 

すべては子どもたちのために

1984年から毎冬、必ず開かれていた田んぼリンクの伝統が途切れたのは、2011年。東日本大震災による東京電力福島第一原発事故の際、川俣町内で山木屋地区だけが避難指示区域に入ったため、休止を余儀なくされました。 それでもスケートの火を消さないために、除染が終了した2016年2月、大内さんたちは田んぼリンクを再開しました。

 

原発事故は、山木屋地区を大きく変えました。震災前は580世帯、1260人いた住民が、現在は約4分の1に。川俣スケートクラブの会員はゼロで、リンクの整備や運営を担う大人も有志の10人弱しかいません。それでも、大内さんたちは凍える夜に水を撒いて、リンクを作り続けています。それは、数が少なくなっても、このリンクでスケートするのを楽しみにしている子どもたちがいるからです。

 

リンクの開放日は、天候次第。しっかり冷え込んで、水が固く凍ったらオープンするので、要問合せ。2020年は暖冬の影響でほとんど滑ることができなかったそうなので、今年はどうなるか。こういう時、やっぱり冬は冬らしくきっちり寒いほうがいいと思います。

 

取材当日、もちろん僕もスケート靴をレンタルして滑りました。生まれたばかりのヤギの赤子のように膝がガクガクして立っているのもままならず、イスにつかまりながら。次回はもう少しかっこよく滑りたいところです。

稀人ハンターの旅はまだまだ続く――。

 

 

  • この記事を書いた人

川内 イオ

1979年、千葉生まれ。ジャンルを問わず「規格外の稀な人」を追う稀人ハンター。新卒で入社した広告代理店を9ヶ月で退職し、03年よりフリーライターに。06年、バルセロナに移住し、ライターをしながらラテンの生活に浸る。10年に帰国後、2誌の編集部を経て再びフリーランスに。現在は稀人ハンターとして多数のメディアに寄稿するほか、イベント企画も手掛ける。 『農業新時代 ネクストファーマーズの挑戦 (文春新書)』 『BREAK!「今」を突き破る仕事論(双葉社)』等、著書多数。 ホームページ:http://iokawauchi.com/

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