フォトグラファー武藤奈緒美の「みる」日々 連載シリーズ

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こんにちは。フォトグラファーの武藤奈緒美こと、むーちょです。

連載の2回目で、私の住まいは大家さん宅と棟続きで、庭伝いに暮らしの音や声が聞こえてきてそこに安心を憶えると書きました

5月末、24年間続いてきたその日々に変化が起きました。

大家さんの様子を毎日見にいらしていた娘さんが倒れ治療が長引きそうということで、大家さんは大阪に暮らす長男さんの元へしばし移ることになったのです。99歳の大家さんご自身が移ることに前向きになっているとお孫さんから伺い、少しほっとしました。

 

移動日の前日、20年間隣人だったTちゃんと不動産屋さんにも声をかけ、そろってご挨拶に伺いました。居間の窓辺で迎えてくれた大家さんは来訪をたいそう喜んでくれ、ひとしきり昔話が膨らみましたが、娘さんの容態を話し始めた途端、「あの子はいつも人の世話ばっかりしていて自分のことは後回し。前(に入院したとき)は会社の人たちが病院に行くよう急かしてくれて事なきを得たの。私が気付いて早く病院に行きなさいって言ってあげられてたらよかった、気付いてあげられなかった、申し訳なくて」と後悔の言葉が続き、声が次第に細っていきました。

世間ではお婆ちゃんと言われる年齢であっても私にとっては大家さんで、常に大家さんは大家さん然として店子の暮らしを守ってくれている大きな存在です。その大家さんが娘の身を案じて自らを悔い打ちひしがれている。大家さんの母なる姿を初めて目の当たりにして、胸にくるものがありました。

 

24年間慣れ親しんでいる台所

 

おいとました後、久しぶりに逢ったTちゃんと大家さんの話をしいしい互いに鼻をすすりながら商店街を散歩しました。

 

あれ、ここ、美味しいパスタ屋さんだったのに。

ここにあった靴の修理屋さんなくなっちゃったんだね、よく直してもらったよ。

私も何度か直してもらった。ちょっとイケメンの職人さんだったよね。

ここに整形外科あったよね、ヤブだった。

うん、私も一度行ったことあるけど二度と行かないって思った、足の裏が痛いっていうのに見もしなかったんだよ!

この街整形外科がイマイチなんだよね、歯医者はたくさんあるのに。

歯医者と言えばさー・・・

年季の入った積ん読スペース

 

久しぶりなことも手伝って、話が次から次へと湧いてきました。

同じタイミングで入居し隣同士になった同い年の彼女は、結婚きっかけで20年暮らしたアパートを寿退室。

毎日逢って話をしてなんてしなくても隣に彼女がいるのは、大家さん宅から聞こえる暮らしの音同様に安心感をもたらしてくれていました。食材や帰省土産のやりとりはもちろんのこと、彼女の部屋にゴキブリが出たと電話をもらい、ゴキジェット持参で退治しに行ったこともありました。何度か彼女の写真を撮ったし、彼女の友人の結婚式を撮りに岡山まで行ったこともあります。彼女が引っ越す前、「ここに住み出したときはピチピチの20代、今じゃ中年40代になったけど、大家さんは20年前も今も変わらずお婆ちゃんなんだよね」なんて笑ったことを覚えています。大家さんのところに一緒に伺ったおかげでいろんなことを思い出した。自分の来し方も思い出すことができた。大丈夫、ちゃんと暮らしてきた。そう実感もできた。

地域猫が訪う窓辺

 

軒下の「地域猫お休み処」

翌日はあいにく朝から雨脚が強い日でした。大家さんはお目にかかるたびに私が道楽で着ているキモノを褒めてくれ、前日伺ったときも「あなたのキモノ姿素敵よ」と何度もおっしゃってくれていたので、この日はキモノ姿で見送ろうと、教えてもらった出発予定の10時には着付けを済ませておきました。雨なので濡れても平気な木綿のキモノで。自分の住まいなのに心ここにあらずのていで、庭越しに聞こえる大家さん宅の音を聞き逃すまいとひたすら耳を傾けておりました。

11時間近になって聞こえてくる声が多くなり、そろそろ出発だと傘をさして伺うと、大家さんはすでに玄関前に出ていて、「あら、武藤さん!キモノ!お似合いよ」と早速言葉をかけてくれました。「そういえばまだ仕立ててない木綿の反物あるから孫に出してもらって。何か困ることがあったら孫に言ってちょうだいよ。お庭もきれいにするよう言っておくから」・・・前日の母なる大家さんの姿ではなく、私が24年間ずっと接してきた大家さん然とした大家さんの姿でした。

車に乗り込む大家さんに「お嫁に行かずに待ってます」と伝え、見えなくなるまで手を振って、部屋に戻ってからおいおい泣きました。大家さんの前では我慢しました、まるでもう逢えないみたいになっちゃいそうで。たくさん支えてもらっていたことを思い返し胸がいっぱいになっていたのです。

夜の庭。ドクダミの前はハナニラが白く浮かび上がる

 

娘さんが順調に快復し大家さんが一日も早くこの場所に戻ってくることを願いながら、翌朝庭にはびこったドクダミを引っこ抜きまくりました。地べたが見えるようになった庭で、大家さんの紫陽花がそろそろ色づきそうです。

 

 

  • この記事を書いた人

武藤 奈緒美

1973年茨城県日立市生まれ。 國學院大學文学部卒業後、スタジオやフリーのアシスタントを経て独立。 広告、書籍、雑誌、パンフレット、web等で活動中。 自然な写真を撮ることが信条です。 ここ10年程で落語などの伝統芸能、着物の撮影を頻繁にやっております。 移動そのものが好きで、その土地その土地の食べ物や文化に関心が強く、声がかかればどこにでも出かけ撮っています。 趣味は読書、落語や演劇鑑賞、歴史探訪。 民俗学や日本の手仕事がここ数年の関心事項です。 撮影を担当した書籍に「柳家喬太郎のヨーロッパ落語道中記」(フィルムアート社)、「さん喬一門本」(秀和システム)、「かぼちゃを塩で煮る」(絵と文 牧野伊三夫 幻冬舎)、「落語家と楽しむ男着物」(河出書房新社)など。[HP むーちょで候。]http://www.mu-cyo.com

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