稀人ハンター川内イオの東奔西走記 連載シリーズ

ヒンヤリ、ドキドキ、冒険気分。超レアな「私設」の大岳鍾乳洞

みなさん、こんにちは! 常識に捉われないアイデアと大胆な行動力を持つ「世界を明るく照らす稀な人」を追いかけて東奔西走、稀人ハンターの川内です。

 

ここ数日、東京は最高気温が25度を超えていて、特に昼間は汗ばむ陽気です。まだ湿気がないので過ごしやすいのですが、僕は梅雨がすごく苦手で、もうすぐ蒸し暑くなると思うと、今からゲンナリしてしまいます。

 

蒸し暑くなったら、ヒンヤリ涼しい気持ちのいいところに行きたい! でも、クーラーがキンキンに効いているところもまた微妙……という方も多いのではないでしょうか? 今回はクーラーなしでヒンヤリ気持ちよく、アドベンチャー気分でドキドキもできるスポットを紹介しましょう。

手掘りの「私設」鍾乳洞

大岳鍾乳洞は東京都の天然記念物

そこは、東京都心から車で90分、またはJR五日市線の秋川駅から車で30分の東京都あきる野市、大岳山麓にある大岳鍾乳洞! え、なんで鍾乳洞!? と驚いた方、もう少し読み進めてください。

 

大岳鍾乳洞は東京都の天然記念物に指定されているのですが、日本でも極めて珍しい私設の鍾乳洞なのです。僕が調べた限り、全国にある鍾乳洞のなかでも個人経営の鍾乳洞はここだけ。それだけに、ベタな観光名所になっている有名な鍾乳洞とは一味も二味も違うんです。

 

そもそも、なんで私設なのでしょうか? 現在、2代目として経営を継いでいる田中嘉伸さんと妻の友美さんに話を聞きました。

 

時は、1960年。嘉伸さんの祖父、田中雄嘉造(おかぞう)さんは林業に携わっていて、大岳のあたりによく出入りをしていたそうです。

 

今の大岳鍾乳洞があるところから、冷たい空気が流れ出ているのに気づいた雄嘉造さんは、ここになにかある! と直感。地主の許可を得てその年の12月に探洞工事に着手しました。工事といっても山の斜面で大きな機械など使える場所ではないので、手掘り! 文字通りガンガン掘り進めると、鍾乳洞が現れました。そのなかをどんどん突き進み、1961年4月には全長180メートルのコースが開通します。

 

地主は鍾乳洞に興味がなかったそうで、雄嘉造さんがオーナーとなり、同年8月、妻のユキさんとともに見学を受け入れ始めました。同時に再び工事をスタートし、10月に全長300メートルの一周コースが完成します。ちなみに、大岳鍾乳洞は全体で1000メートルほどの規模で、一般公開されているのはその一部です。

1日1000人の観光客が10分の1に

未知なる冒険の始まり

大岳鍾乳洞の入り口に掲げられた掲示板によると、1965年に洞内の実測地図が作成され、「保存が良好であること、学術上貴重であること」から、翌年の3月、東京都教育委員会より、天然記念物に指定されました。

 

大岳鍾乳洞があるのは、周囲を緑豊かな山々に囲まれた「秋川渓谷」と呼ばれるエリアで、都心から90分程度で釣りや川遊び、ハイキングが楽しめる穴場。そこに誕生した大岳鍾乳洞は新たな観光地として話題になり、多い時には1日に1000人以上の観光客が来たそうです。孫の嘉伸さんは、4、5歳の頃からよく遊びに来ていたと振り返ります。

 

「その頃は賑わっていたので、連休とか混雑する時には両親や親戚も手伝いに来ていました。僕も一緒に来て、鍾乳洞に入ったり、川遊びをしたりしていましたね」

実家が鍾乳洞の近くにあり、鍾乳洞が遊び場でもあった嘉伸さんが後を継ごうと決めたのは、30代になってからでした。建機メーカーの子会社で営業マンとして働いていた嘉伸さんは、30代になると、車で片道1時間半もかかる通勤や残業、ノルマに疲れ、転職を考えるようになりました。

 

その時に選択肢として浮かんだのが、雄嘉造さん亡き後、祖母のユキさんがひとりで切り盛りしていた大岳鍾乳洞と併設するキャンプ場でした。

 

「地元でキャンプ場をやっている人と知り合って、『実家でせっかくそういうところがあるならぜひ続けてください。やりようによってはちゃんと食べられるから大丈夫だよ。その方法は教えるし』と言われたんです。それから、将来やってみたいなと思うようになりました」

 

ただ、鍾乳洞を訪れる観光客は下降線をたどり、当時は最盛期の10分の1ほど。キャンプ場も宣伝したことがなく、ごくわずかの知っている人が利用するだけでした。その状況で、安定した会社員を辞めるのは怖いという気持ちもあったし、ずっと別の仕事で自営業をしていた両親に相談した時にも「やめときなさい」と止められて、どうしようかと悩んだまま4年、5年と過ぎていきました。

 

その間にも、ユキさんの手伝いをする形でキャンプ場を整備して町のホームページや旅行雑誌に載せてもらったり、大岳鍾乳洞とキャンプ場のホームページを作ったりはしていました。

 

2代目として経営を引き継ぐ

手書きの案内板に従って進む

いよいよ、転職したいという想いが強くなった時、背中を押してくれたのは、当時まだ彼女だった友美さん。「そんなに辞めたかったら、辞めちゃいなよ。なにかほかに好きなこと探したら」と言われて、ようやく退職して後を継ぐ踏ん切りがついたそうです。

 

2016年1月いっぱいで会社を辞めた嘉伸さん。胸のうちでは鍾乳洞とキャンプ場を継ぐ決意を固めていたのですが、祖母のユキさんが100歳になってもひとり元気に鍾乳洞の営業を続けていたこと、その年の3月に友美さんとの結婚式を控えていたこともあり、なんとなく伝えそびれていました。そして結局、ハッキリと自分の意志を告げる前に、ユキさんとの別れを迎えてしまいます。

 

「(2016年)3月20日に結婚式を挙げました。祖母は少し体調を崩していて式には参加できなかったので、翌日に写真を持って行ったら、『よかったねえ』と喜んでくれて。ところが、23日の夕方、突然亡くなってしまったんです」

 

雄嘉造さんが亡くなった後、ユキさんはよく「もう私しかいないから」と言っていたそう。恐らく、嘉伸さんが継ぐつもりだと知らないまま他界してしまったのです。それは嘉伸さんにとって心残りでしたが、霊前に挨拶をして、翌月には2代目として経営を引き継ぎました。

 

それから、6年。会社員時代とはまるで違う生活を送る嘉伸さんに、今の気持ちはどうですか? と尋ねると、「会社員を辞めてよかったです」と言いました。

 

「ぜんぶ自分たちでやらなきゃいけないので、そのへんは大変ですけど、気持ち的には楽ですよね。上司もいないし、通勤時間は15分ぐらいだし(笑)」

「冒険気分」を味わう30分

鍾乳洞のなかは涼しくて気持ちいい

経営は順風満帆、ではありませんでした。新型コロナウイルスの感染拡大が始まってから、鍾乳洞の入場者は激減。それまでよく来ていた学校の遠足や団体旅行客が途絶えてしまったからです。ただ、まったくひと気のない清流の河原で直火の焚火や川遊びを楽しめるキャンプ場は、「密」を避けるアウトドアブームで注目を集めるようになり、たくさんの利用客が訪れるようになりました。

 

「奥多摩は有名なんですけど、秋川渓谷はそんなに知られていなかったんですね。コロナになってから、キャンプの問い合わせがすごく増えました。都内から車で90分ほどでこれだけの大自然があるから、『近くて最高』って毎週のように来ているリピーターさんもいますよ」

 

キャンプ目当ての客は鍾乳洞のことをよく知らない人が大半で、現地に来てから「東京に鍾乳洞があるの!?」と驚くそう。せっかくだから試しに入ってみようという人も多く、なかでも子どもは大喜びすると言います。「もう一回入りたいという子が、たくさんいます。泣き叫ぶ子もいるぐらい(笑)」と友美さんに、「冒険気分が味わえるからね」と頷く嘉伸さん。このインタビューを終えた後、鍾乳洞に潜入した僕は「冒険気分」の意味を十分すぎるほど実感しました。

表の世界では見られない不思議な景色

現在、東京にある鍾乳洞で見学できるのは、全長約800メートルと関東屈指の広さを誇る日原鍾乳洞(西多摩郡奥多摩町)と大岳鍾乳洞だけ。ホームページを見ると、日原鍾乳洞は広々とした通路が整備されていて、内部は青や赤、紫などにライトアップされているようです。

 

一方、大岳鍾乳洞は立ったまま普通に歩ける高さ、広さの場所はほとんどなく、手元、足元を確認しながら岩の隙間や割れ目をすり抜けていくダイナミックなコースが売り。まるでケイビング(洞窟探検)を体験するようなスリルを味わえる鍾乳洞は、全国を見てもなかなかないはずです。

 

大岳鍾乳洞の内部は水に溶けた炭酸カルシウムがつららのように垂れ下がる鍾乳石や、床に落ちてタケノコのようになった石筍、さらに古生代、中生代に栄えた深海の生き物ウミユリの化石があったり、コケのような植物が生えていたりと不思議な光景の連続。所要時間は30分ですが、地球の内部に潜り込むような密度の濃い体験が、あなたを待っています。そして、鍾乳洞のなかは常に10度前後に保たれていて快適なので、暑くなってくるこれからの季節におススメ!

 

うちの娘も、間違いなく楽しんでくれるはず。次回は家族で訪ねようと思います。

 

稀人ハンターの旅はまだまだ続く――。

 

ADDRESS

大岳鍾乳洞 大岳キャンプ場
東京都あきる野市養沢1587
http://ootakecave.com/

 

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  • この記事を書いた人

川内 イオ

1979年、千葉生まれ。ジャンルを問わず「規格外の稀な人」を追う稀人ハンター。新卒で入社した広告代理店を9ヶ月で退職し、03年よりフリーライターに。06年、バルセロナに移住し、ライターをしながらラテンの生活に浸る。10年に帰国後、2誌の編集部を経て再びフリーランスに。現在は稀人ハンターとして多数のメディアに寄稿するほか、イベント企画も手掛ける。 『農業新時代 ネクストファーマーズの挑戦 (文春新書)』 『BREAK!「今」を突き破る仕事論(双葉社)』等、著書多数。 ホームページ:http://iokawauchi.com/

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