稀人ハンター川内イオの東奔西走記 連載シリーズ

創業151年の黒染め屋

 皆さん、こんにちは! 常識に捉われないアイデアと行動力で「世界を明るく照らす稀な人」を追いかけている、稀人ハンターの川内です。

 

10月に入って、秋の気配が深まってきましたね。秋といえば、紅葉。紅葉の季節になると、 毎年のように有名な広告コピー「そうだ 京都 いこう」を思い出します。なかなか遠出がしにくい時期ですが、秋の京都は魅力的……ということで、今回は京都の職人を紹介します。

創業151年の黒染め屋

明治3年創業の黒染屋

日本を代表する古都である京都には、さまざまな職人技が今も受け継がれていて、そのなかには、日々の生活のなかではパッと思いつかないような仕事もあります。

 

創業151年を誇る京都の黒染屋・馬場染工業(ばんばせんこうぎょう)もそのひとつ。馬場家の初代が中京区柳水町で創業した1870年(明治3年)ごろは、京都で黒紋付が売れ始めた時期でした。黒紋付は喪服というイメージがありますが、喪服として着用されるようになったのは戦後からと言われていて、創業当時は富裕層の正装として需要があったそうです。

3代目の頃になると、それまでは一部の人間にしか許されなかった家紋を一般人でも持てるようになりました。すると、自分が持っていた生地を黒紋付用に染め変える、という人が増えました。そこで3代目は約16メートルある紋付き袴の生地をぜんぶ広げて黒染めの手作業ができるように工房を拡大しました。

アイデアマンとして事業を拡大した4代目、幸造さん

そして4代目の馬場孝造さんは、家業の黒染めをさらに進化させました。「今までの黒はグレーに見える! 黒っていうのはもっと黒やと思う!」と言って目指したのが「カラスの濡れ羽色」。孝造さんの次女で、現在5代目を務める馬場麻紀さんは、こう振り返ります。

 

「染料屋さんと一緒にいろいろ試行錯誤をして、黒より黒い最高級の黒色を開発しはったんですよ。『秀明黒(しゅうめいぐろ)』と名付けた黒色はまさにカラスの濡れ羽色と呼ばれて、みんながびっくりするほどの出来栄えでした」

 

「秀明黒の馬場染工」はその名を全国にとどろかせ、注文が殺到。なんと1ヵ月に3万反の生地が届けられ、工房に所狭しと積みあがっていたと言います。さすがにこの数を手作業で染めることはできない、ということで、「アイデアマン」と呼ばれていた孝造さんは機械メーカーに話をつけ、自ら設計に携わって黒染めの機械を開発。秀明黒を機械で表現するために研究に研究を重ねて数年後、ついに業界で初めて機械化に成功しました。

「黒より黒い、秀明黒」を捨て始めた4代目

5代目を務める馬場麻紀さん

麻紀さんが育ったのはまさに孝造さんがフル回転していた時期だったから、自宅兼工房で目に焼き付いているのはモノトーンの風景。白い反物か、染めた後の黒い反物が視界を埋めていて、ずっと「うちは黒ばっかりでイヤやな……」と苦々しく思っていたそうです。

 

高校時代には「お父さんの知らん世界で仕事をしたい」と願うようになっていた麻紀さんは、就職しろという孝造さんをなんとか説得して洋裁の専門学校に進学。卒業後は、テキスタイルデザイナーとして2社で働き、充実した日々を送りました。しかし、あまりに多忙で体調を崩したこともあり、28歳の時、結婚を機に退職。3人の子どもに恵まれて、デザイナーの仕事から遠ざかりました。

 

子育てに追われる日々のなかで数年が経ったころ、転機が訪れました。離婚が決まり、子ども3人を連れて実家に戻ることになったのです。父・孝造さんと母親と計6人での新生活。常にポジティブな麻紀さんは、めげることなくすぐにアルバイトを始めました。ところが、年下ばかりの職場で人間関係がうまくいかず、悩む日々。やがて、麻紀さんは腹をくくりました。

 

「家で仕事をしよう」

 

麻紀さんは工房で幸造さんの手伝いをするようになり、6人での生活は平穏に過ぎていきました。それがある日、幸造さんが肺ガンで倒れて状況が一変。もう自分は長くないと受け入れた幸造さんは、「もう仕事する人いいひんし捨てんのや」と長年、継ぎ足し、継ぎ足し使ってきた「黒より黒い、秀明黒」の染料を流しに捨て始めたのです。それを見た麻紀さんは慌てて止めに入り、「自分が継ぐから」と宣言しました。

年間1000着を染め替え

ハンガーに衣類をつるし、染料に着け置きする

こうして2008年、5代目を継いだ麻紀さん。常々、「自分の食い扶持は自分で稼げ」と幸造さんから言われていたこともあり、代々続く着物の黒染めを請け負いつつ、徐々に自分の得意分野に仕事をシフトしていきました。コートやセーター、ワンピースなどの洋服を黒く染める「染め替え」です。

 

「洋服の染め替えは洋服のことがわかってないとできないんですけど、私は学校でテキスタイルを学んでいたので、たくさん種類がある生地をそれぞれどう染めたらいいかっていうことがわかるんです。なにかトラブルが起きても、自分で直せる技術があるから全然動揺しないんですよ」

 

麻紀さんは、ひとつひとつの仕事にじっくりと時間をかけます。まずは、依頼主と10分から15分をかけてカウンセリング。染めの作業は、ボタンやバックルなどの付属品をはずすことから始まります。それから、生地が傷まないように普通の染屋さんが2時間でやる作業を6時間かけて染め上げて、乾いたら付属品を付け直します。これらはすべて手作業です。

黒染めされた衣類。手前のコートはもともと真っ赤な色をしていた

この丁寧な仕事と幸造さんから受け継いだ艶やかな黒色が評判を呼び、口コミだけで右肩上がりに仕事が増えていきました。今では年間1000着を黒に染め替えしています。

 

もともと家業を継ぐ気はなかった麻紀さんですが、今は「こんな楽しいことあらへんわ!ってくらい、むっちゃくちゃ楽しいです」と笑います。

 

「子どものころは、黒染め屋さんっていうのが嫌だったんですけど、今はもう黒が一番かっこいいと思ってます。釜で炊いて服の色が変わっていくのをみて、いつも独り言を言ってるんですよ。ああ、素晴らしい黒やって」

 

工房には、黒く染められるのを待つ洋服がハンガーにたくさんかかっていました。僕も次に京都に行く時、黒に生まれ変わらせたい服を持っていこうと思います。

 

稀人ハンターの旅はまだまだ続く――。

ACCESS

馬場染工業

京都府京都市中京区西洞院通三条下ル柳水町75

TEL:075-221-4759

 

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  • この記事を書いた人

川内 イオ

1979年、千葉生まれ。ジャンルを問わず「規格外の稀な人」を追う稀人ハンター。新卒で入社した広告代理店を9ヶ月で退職し、03年よりフリーライターに。06年、バルセロナに移住し、ライターをしながらラテンの生活に浸る。10年に帰国後、2誌の編集部を経て再びフリーランスに。現在は稀人ハンターとして多数のメディアに寄稿するほか、イベント企画も手掛ける。 『農業新時代 ネクストファーマーズの挑戦 (文春新書)』 『BREAK!「今」を突き破る仕事論(双葉社)』等、著書多数。 ホームページ:http://iokawauchi.com/

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